『世界99』を読んでいる間、わたしはずっとつらかった。人間のさまざまな感情や欲望、きれいではないそれらをまざまざと見せつけられたから。
「普通」とは、何を指すのか。わたしはこの登場人物たちに共感していいのか、反発すべきなのか。悩みながら読んだ。
「自分」を持たない女性・空子。周囲の人々に合わせて「呼応」「トレース」し、その場その場で人格を使い分けて生きている人物が物語の語り手だ。
この世界には「ピョコルン」という愛玩動物が存在する。ピョコルンは人間に都合の良いように改良を繰り返され、徐々に家事や出産などの厄介な物事はすべて彼らが引き受けていくようになる。
『世界99』は、からっぽな人間である空子の生涯と、彼女が生きる世界を描いたディストピア小説である。
私がこの小説を読みながら考えていたのは、「自分らしさ」って何だろう、ということだ。
空子は徹底的に「自分」というものがない。接する相手に対して徹底的に「呼応」し、相手に合わせた自分を「トレース」して作り上げる。
いくつもの人格を作り出した彼女には、所属する世界がいくつもある。世界①、世界②、世界③……。その世界に合わせた人格に自然となりきり、世界を行き来しながら生きている。
究極な「自分」のなさは、この小説を読んでいると主人公の異常性として読めると思う。しかし、「空子的」な部分は人間なら誰しもが持っているものではないかとわたしは感じる。
人によってその要素の大小はあれど、接する相手に合わせてキャラクターを作ったり、属するグループによって違う自分がいることってけっこう普遍的なことじゃないだろうか。
主人公ほどではなくても、わたしもその場その場で適切な自分を使い分けていた感覚がある。
例えば、学生時代。家での自分と学校での自分には、明確なキャラクターの違いがあった。
外でのわたしはいわゆる「いい子」を演じており、物分かりが良く、いつもおとなしく人の話を聞いていた。
逆に家では、だらしなくて一度座るとなかなか動かない、面倒くさがりな面が強かった。
他にも、習い事教室での自分、仲の良い友人と遊ぶときの自分……。わたしという人間は1人だけど、複数存在していたんだと思う。
だから、空子はわたしと地続きの存在なのでは、と思う。そう思わされることは、自分にとっては少し怖い。
空子には「自分」がないからだ。
空子を見ていると、本当の自分というものが揺らぐ。わたしが「これが自分だ」と思っているものも、誰かに「呼応」「トレース」した結果できたものに過ぎないのではないか。そんな考えが浮かんでしまう。
空子の極端さに怯えながらも、同時に共感も覚える。そしてピョコルンが存在するこの世界では、面倒だったり汚かったりするものはすべて彼らに丸投げできる。
この小説は、人間のあまり向き合いたくない部分に強制的に目を向けさせられるような読後感だった。
わたしはこのディストピアを、完全に否定することはできない。そのことに途中で気がついた。だからこそ、読みながらずっと「つらい」と感じていたのだろう。
「自分らしさ」とは、そして真の意味で「美しい」世界とは。自分の価値観を揺さぶられる読書体験だった。

