”凡庸な人生”とは何かー『ストーナー』を読む

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『ストーナー』を読んだ。

わたしは海外文学に疎いから表現や場面を理解しきれていない部分もたくさんあるだろう。それでもラストシーンでは涙を流し、何となく思うところもあって、総じておもしろく読めたと思う。

 


 

この小説はタイトルにもなっているストーナーという名の男の一生を描いた物語だ。ストーナーは大学で英文学を教える教師だが、生まれは農家である。両親が文学を好きだったとかそういうこともなく、ただ農業を手伝いながら静かに日々をこなしていく家族のもとで育った。

そんなストーナーの人生は大学で農業を学ばないかという誘いによって大きな転換を迎える。真面目なストーナーは、実家を出て大学に通い始めてから最初はもちろん農業に関することをやはり真面目に学んでいた。けれど必修授業でとある先生と英文学に出会ってその魅力に取り憑かれてしまう。そして大学に残って英文学を研究するという、ストーナーにとって人生で初めてかつ数少ない強い意志での選択をすることになってしまうのだった。

もちろん両親は期待していた家業への貢献とは全く逆の息子の行動に困惑するし、こんなつもりで大学に行かせたわけじゃないと思いもしただろう。でも、文学に対する想いが彼を動かしたと思うとアツい展開だなと思う。

このストーナーという小説は、そんなふうに英文学に関わることになった1人の男が主人公というわけだ。

ここまでの経緯で、ストーナーは情熱的で行動力のある男だと思うだろうか? 実はそういうわけでもない。この小説の紹介に「凡庸な人生」という言葉が使われているのを目にしたことがある気がする(※うろ覚え)のだけど、その通りにストーナーは別に大きな何かを成し遂げるわけでもない地味な人物なのだ。

現に、本の冒頭でいきなり彼の死後の様子が軽く語られているんだけど、それがまあ「大したことがない」みたいな表現なわけで。それを最初に見せられてから読み始めるから、この人は大した人物ではないんだろうと期待をせずに読み進めることになる。それもある意味でおもしろい仕掛けかもしれないけれど。

ただここで勘違いしないでほしいのが、ストーナーは英文学に対しては強い想いを持っているということだ。英文学を研究し教えるということがストーナーの人生にとって唯一と言っていい大切なことのようにわたしには見えた。書籍を出版する(大して売れなかったが)など、仕事に関してはけっこう充実していそうな人生だなと思った。

小説の内容としてはこんな感じ。ストーナーの仕事と恋愛、家庭、そういうものが淡々と語られている。

 


 

わたしがこの小説を読み進めながら、そして読み終えてからずっと抱えていた問いがあって、「凡庸な人生って何だろう?」ということ。ストーナーの人生は本当に凡庸と言えるのかな? と考えずにはいられなかった。なぜかって、彼の人生はわたしの目には波瀾万丈にさえ見えたからだ。

農業から英文学への華麗な転身、戦争、家族や同僚とのトラブル、道を外れた恋。ひとつひとつの事件を見るとどれもが特別で普通の人はこんな大変な目には合わないだろうと思った。そう、なんだかストーナーって大変な目にあいすぎなんだよね。けっこうつらい人生に思えてしまって、例えば同僚とのトラブルとか妻のヒステリックさとか、妙に生々しく描かれていて読んでいるこちらの胃が痛くなりそうな状況も多かった。

そういうこともあって、この小説を読んでいる間「凡庸って何をもっていえるのかしら?」なんて常に自問自答していた気がする。その問いはラストまで読み終えて本を閉じてからも続いていて、ストーナーという1人の男の人生に想いを馳せながら考え続けることになった。

この「凡庸な人生とは?」という問いにわたしが出した一応の結論は、すべての人生は凡庸であり特別だというこれまた平凡なものだった。でも実際そうだと思っていて、この世のほとんどの人の人生はきっと「凡庸」なものなはず。ただそれは俯瞰して多数を同時に見たときの話で、ぐぐっとフォーカスして1人の人生をつぶさに見てみるとそこにはストーナーと同じくたくさんの波風が立っているんだろうと思う。

誰ひとりとして「何もない」人生を送っているわけがない。それに気づくと、別に凡庸という言葉は「無」を意味しているわけではないと思い至った。すべての普通の人が、山も谷も川もある「凡庸な」人生を送っているんだ、そしてこの小説はそんな人々の1人であるストーナーにたまたま焦点を当てただけのものなのかもしれない。そんなふうに考えると、小説の紹介としての「凡庸な人生」という言葉にも折り合いがつけられるように思う。

でも、そんなふうに『ストーナー』を定義づけした上でなお、わたしは彼の生き様をつらく苦しくも少し羨ましいものとして見てしまう。彼の体験したままならない出来事は正直いやだなあとか腹立たしいとしか思わないけど、英文学に対する取り組みだけは格好いいと感じる。ああ、ストーナーはこのために生きたんだなと。

誰の人生にもそういうものが大なり小なり存在するのかな? わたしにも、これのために生きたといえる何かがいつか見つかるのだろうか。それとももう手にしているのか。これもまた今後も続く問いとして胸にしまっておきたいと思う。

 

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